堺市職労(堺市職員労働組合)ブログ

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「自立・挑戦・交流~そして人と自然が輝く島」(自主的視察レポート) 副執行委員長 丹野 優

 島根県海士町への自主的視察に、堺市若手職員4名、某企業若手社員、林田書記次長と私の7名で行ってきました。

(1月7日~10日に連載)

 境港からフェリーで3時間の海士町は、財政や人口規模、産業構造などは堺市と全く違います。しかし、離島のハンデキャップや過疎、財政悪化、町村合併の圧力などに立ち向かい、町の存続を賭け「自立・挑戦・交流」を掲げた「島ぐるみ」の取組みは、私たちがこれから堺市の活性化、市民サービス向上や地方自治の発展などをめざすにあたっても、ヒントを得られるのではないか、と考えました。

 島根半島沖合約60㎞の隠岐諸島の一つの島である海士町は、鎌倉時代承久の乱後に後鳥羽上皇などが流され、神楽や俳句などの伝統芸能や歴史的遺産があります。人口約2,350人、面積33・5㎢、標準財政規模は約22億円、対馬暖流の影響を受けた豊かな海の幸と、豊富な湧水に恵まれた自給自足のできる半農半漁の島、大山隠岐国立公園に指定されている自然豊かな島です。

 町には大きな二つの問題がありました。

ひとつは、人口の約4割が65歳以上という超少子高齢化で、昭和25年当時約7,000人だった人口が約2,350人にまで減少していたこと、もうひとつは、小泉政権の「構造改革」の柱「三位一体改革」で、島の雇用と経済を支えてきた公共事業の大幅削減と地方交付税等の突然かつ大幅な削減による財政危機に陥り、島の存続も危うい緊急事態に直面したことです。

「自分たちの島は自分たちで守る」 

 超少子高齢化による人口減少と小泉「構造改革」による財政危機。このような厳しい状況におかれた海士町ですが、「平成の大合併」時の議論では、県のプレッシャーの中で、「自分たちの島は自分たちで守る」覚悟を固め、単独町政での自立の道を決断したのでした。

 任意合併協議会(西ノ島町海士町知夫村と県で事務局を構成)で事務局長を務められた海士町財政課長の吉元氏は、「合併で、海士町がよくなる要素はなかった。県の担当者に『そんなに合併をすすめるなら、合併したあとの海士にあなたは住んでいただけますか?』と逆に問うなど、本音のやりとりもあった。」と当時を振り返ります。吉元氏は、高校魅力化プロジェクト担当課長も務めておられ、合併議論当時から町が一丸となって危機を乗り越える取組みの第一線で指揮を執ってこられました。「町長、職員、住民、事業者、Iターン者(都会からの移住者)などみんなが力と知恵をだした団体戦だ。」と熱く語ります。

 厳しい現実を乗り越えるため、海士の「挑戦」が始まりました。

町長の給料50%カットをはじめ、全職員の給料カットや議員、教育委員の報酬カットなどの人件費削減の「守り」に止まらず、活き続けるための「攻め」を打ち出したのが、「人づくり」(定住対策)と「島まるごとブランド化戦略」などの産業振興策でした。

「未来を創る人づくり」への挑戦

 町が力を入れたのは、若者の流出を抑える「定住対策」でした。子育て支援策では、「すこやか子育て支援条例」を制定し、第3子、第4子への誕生祝金、妊婦の本土への検診支援などに力をいれました。

 また、新しい都市地方交流事業の形を模索すべくスタートした、都会発・海士町行「AMA(あま)ワゴン事業」(出前授業、産業体験)は、都会の多くの人たちとの交流とIターンのきっかけをつくりました。現在は、地域共育課長を務める宮岡氏は事業を主導的に実施した一人です。

 さらに、生徒の減少で廃校の危機にあった県立高校の魅力化をめざすプロジェクトにより、学力・進学率向上と島外からも生徒が集まるようになりました。

 AMAワゴンの講師に招かれたことがきっかけで海士町にIターンした東京出身の岩本氏(30歳代の青年)は務めていた某大企業を辞め、高校魅力化プロデューサーとして教育体制の整備や進学率向上に取り組んでおられます。「これまで発展途上国に学校建設をめざす取組みをすすめてきたけれども、国内の海士町のことをできないのに外国のことはできない、と思った。」とIターンの理由を語ります。

他にも島外の子どもや大学生との交流行事、子ども議会での提案実現化などに取り組んできました。

これらの取組みにより、H16~22の7ヵ年に310人、188世帯のIターンが島に定住し、定着率は80%となっています。

 まさに、「よそもの大歓迎」。そして、この「よそものたち」も、島の「挑戦」に一役も二役も買うのです。

「ないものはない!」島の挑戦

 「島まるごとブランド化戦略」では、第一次産業に付加価値をつけ、新たな加工産業と雇用創出をめざしました。例えば、島の食文化だった「さざえカレー」をレトルトで売出し、安定販売が続きます。また、白イカなどを遠くの消費者に新鮮なまま届けるため、「CASシステム」(細胞を壊さず冷凍し、とれたてが味わえる)を導入(三セクで施設整備)し、首都圏や上海への輸出も行われています。

 さらに、養殖岩牡蠣に「春香」のブランド名をつけ、築地や首都圏への出荷を定着化、島の良質な子牛は島外の業者が購入しブランド名で生産されてきましたが、島内飼育し「島生まれ島育ち隠岐牛」としてブランド化、松坂牛と同等のランクを得るまでになりました。  他に「海士乃塩」「干しなまこ」などの販路拡大も。

 このように、離島のハンデを活かし、様々な挑戦によりI・Uターン者を含めた起業家と雇用を創出してきました。町は、産業振興関係3課を役場の中ではなく、玄関口の菱浦港ターミナル「キンニャモニャセンター」に設置、現場重視で展開を図っています。

 同センターには、「ないものはない」と書かれたポスターが貼られ、職員の名刺にも。職員が議論して考案された「スローガン」です。

 「この島にはなにもない。しかし、無いものは無い、すべてここにある。」~便利なものはないけども、豊富な自然がある。なにより挑戦する町の人たちの熱い思いが島の誇りです。

 そして、掲げられている「自立・挑戦・交流~そして人と自然が輝く島」という看板が、町民の経験と実践に裏付けられた堂々のメッセージを発信していました。

 堺市職労が大目標とするスローガン「住民の繁栄なくして自治体労働者の幸せはない」を「掲げ続けて運動を継続していることが素晴らしい」と讃えてくれたのは佃教育長と吉元財政課長でした。この言葉を重く受け止めつつ、海士町の経験にも学びながら堺のまちづくり運動を発展させたいと考えています。

あなたも他地域の取組みを知り、堺の今を見つめ、これからを考えてみませんか?

★まちづくり学習会「僕が海士町で学んでいること、挑戦していること」

★講師:株式会社巡の環 代表取締役 阿部 裕志氏

★日時:2月12日(水)午後6時30分~8時

★場所:本館地下1階職員会館大会議室