堺市職労(堺市職員労働組合)ブログ

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海士町視察を振り返って⑤

さかい未来づくりサロン

(4月20日付)

K・N氏

 今回、私が海士町を訪れたのはちょうど一年ぶりのことでした。当時はプライベートで、堺市職労のメンバーや民間企業で都市開発の仕事をされている方と一緒に、巡の環の皆さんにアテンドいただき2泊3日の視察を行う機会を得ました。そのときも参加者一同、海士町の取り組みから数多くの刺激を受けて帰ってきましたが、その後、堺市職労の企画で巡の環の阿部さんにお話頂く機会を得、より多くの期待を胸に、今回の視察に臨むことができました。

 私はちょうど10年ほど前の学生時代に海士町と出会い、それ以後、交流を続けさせて頂いていますが、海士町のすごさは一言でいうと「地域としての包容力」ではないかと思っています。それは若者のIターン者が他地域に比べて非常に多いことや、そのIターン者たちが「これをやりたい!」と考えても都会ではなかなかできないことを、地元の方や行政が一生懸命協力してともに実施し、国のモデルケースとなるような取り組みを成し遂げていることに如実に現れていると思いますが、行政の方々が「うちは昔からよそ者を受け入れる土壌だから。後鳥羽上皇も島に流された後に京都に帰りたいと言っていたが、島の人はきちんとお世話をした」と言うように、地域アイデンティティーと自らの使命感、覚悟を胸に地域を創りあげていること、そしてそれを個人としてではなくチームとして、つらいことも楽しみながらやっていることが強みであると思います。今回の視察を通して、行政の方や地域の方と接する中で改めてそのことを感じることができたとともに、勇気をもらうことができました。

 私は市職員として働きながら地域の歴史を学んだり、司馬遼太郎氏の著書を読む中で、堺はかつて、「地域としての包容力」が非常にあった地域であると思っています。それはこの地が中世に海外との交易が盛んであったこと、「もののはじまりなんでもさかい」という言葉に代表されるようにこの地で多くの産業や新たな文化や芸能が生まれたこと、そしてその気風から河口慧海のような人物が生まれたことに見れば明らかだと思いますが、「堺にいけば新しいことができる。堺にいけばビジネスの種が見つかる。堺にいけばいろんな情報を得ることができる」と人に思わせる魅力と匂いがそこにあり、多くの「よそ者」を受け入れ、様々な実践をさせるだけの度量や包容力がこの地域に根付いていたのではないかと思います。

 私は、堺がその歴史の中で培ってきた「地域としての包容力」を存分に発揮することがこれからの堺の地域活動を考えていくうえで非常に重要ではないかと考えていますが、今回の視察を通して労働組合のメンバーや市内民間企業の方と多くを語る中で、そのことをまた明確に感じました。

 私たち市職員の仕事は、チームとして協力し合いながら、地域の方が活動しやすい環境を整え、ともに地域を耕していくことであると思いますが、まさにそれを実践している海士町の方々の取り組みに触れることができ、自らがこれからやるべきことを再確認できたように思います。

 最後に、海士町でお世話になった皆さん、アテンドしてくださった巡の環の阿部さん、石坂さん、今回の企画を実施まで導いてくださった丹野さんはじめ堺市職労の皆さん、そして時間をともにしたメンバー一同に感謝申し上げます。堺と海士町のつながりはまだまだ始まったばかりですが、これからも互いに刺激を与え合いながら、より良い地域を創っていければうれしく思います。

T・H氏

 最終日の行動開始は今回も早かった。一昨年は、「さかい環づくり」のメンバーに交じらせてもらい、同じ時期に7人で訪れた。

 行き来にそれぞれで丸一日を要する道中、海士町に既定されている条件を感じずにはおれない。帰りの身支度を済ませ、振り返りのプログラムが8時から始まるというのも、9時50分発のフェリーに間に合わせるためである。境港行は唯一この便だけ。そして境港に着くのは、お昼をゆうに食べ終えた13時20分。おまけに、時間のロスなく特急を乗り継いで、岡山に到着するのが17時38分。これだけで日が暮れてしまうのである。

 なのに、岡山からはわずか45分で新大阪。まさに、これが海士町に住む人のおかれた地理的条件なのだと身をもって感じた。岡山から新大阪までは、海士町へのフェリー航路の約3倍の距離があるにも関わらず、わずか4分の1の時間で移動が可能なのだ。さらに、冬は海況次第でフェリーが欠航となる(実際、私たちが帰阪した翌週、寒波が襲来し、欠航になったそうだ)。

 条件不利地域と言ってしまえば一言で片付けられてしまうが、このことを、離島と都市の「格差」と言わずして、何と言おう。

 私たちが海士町に滞在したのは、たったの3日間。そのうち、ほぼ2日は移動である。こんな中でも、私が一番考えさせられたのは、「幸せに暮らす」、その中身だ。

 この視察では、現地の人から話を伺い、対話をできるプログラムがあらかじめセッティングされている。

 今回は、地元の方々の住まう地域を歩きながら、話をお伺いする機会を設けてもらった。私たちのグループと一緒に歩いてくれたのは、元区長で半農半漁の暮らしをされている渡辺さん。足取りがかくしゃくとしていて、とても80歳を超えているとは思えない。途中、ご自身の船に飛び乗り、係留していたサザエをお土産で分けてくださった。常に目じりをさげた柔和な顔で話をしてくださったのが印象的で、「子どもらは大阪や神戸で生活しているけんのぉ」と、正直、笑顔と対照的な寂しさが伝わってきた。一方、「そろそろ老後のことを考えんといかんと(妻と)言うとるんやわぁ」と、素で話されたのを聞いて、年齢の重ね方について、考えさせられた。

 訪ねた崎地区は、海士町のある中ノ島でも南の端で、山と谷で隔絶された感があり、畑といっても、海からすぐにせり出している山との間のわずかな土地を利用したもので、漁港は漁獲量の減もあり、申し訳ないがさびれている。偏見かもしれないが、毎日に大きな変化はないのではないかという雰囲気があった。

 けれども、立派な大根やキャベツがしっかりと実り、自身で育てたものを食する。道で出会った地区の人同士が収穫したみかんの話題で盛り上がる。そして、話しをしてくださった3人が皆、ご高齢といわれる年齢であるが、若々しいのである。

 これは個々人の体質や生活態度とも無関係ではないと思われるが、それだけではないような気がするのである。この方々の生活を取り巻く全体が、健康なからだを保たせているのではないかと感じた。

 私の父親は60歳まで毎日毎日、会社に働きつめ定年退職し、崎地区の方々よりも10歳ほど若い。親を悪く言うようなことはしたくないが、崎地区の方々の活動ぶりがずっと若いのである。そして、地域のつながりも豊かである。

 海士町と比べると、恐らく不便の少ない暮らしを送れているはずであるが、人生全体でみたときの豊かな暮らしといえるのかは、私に投げかけられた問いのように思う。

 他に、前回に続き、役場の財政課長や地域共育課長、教育長、さらには一般職員の方などと意見交換する場をもてた。

 強く感じたのは、堺市と比べて何かにつけて「距離が近い」という感覚だ。

 例を挙げると、都市の若者との交流プロジェクト(ラブワゴンならぬ)「AMAワゴン」。海士町がマイクロバスを仕立てて、首都圏から若者を引き抜いて(さらって)きて、中学校での出前授業を行うというもの。賛否はあるようだが、その後の海士町への定住にもつながっていると言われている。

 あまり事務的には考えたくないが、堺市で実施しようと思えば、予算化をはじめ、稟議を通すのに相当な調整や下準備が必要なように思う。堺市というこれだけの規模であれば、何事も決まりに則って処理することが求められるのも最もだが…。

 それよりも海士町では、「生きるか死ぬかというときだったので、そんなことは言っておれん。わらをもすがる思い」という状況に、「責任は自分がとる」という町長の一言が職員の背中を押し、「自立・挑戦・交流」という町政の指針の一つである「交流による人づくり」というコンセプトとも相まって、「やろうと思えば何でもできる」(吉元財政課長)という風土を生み出しているように感じた。誤解を恐れずに言えば、「形よりも中身」でいけるというのが海士町の強みのように感じる。

 「いかに住民のためにということが大事か」と、吉元財政課長が語っておられたが、その点では堺市職員も一致できるはずである。にも関わらず、そのことをどれだけ実感として感じられている職員がいるかというと、恐らく大きな差があるように思う。というのも、やはり距離感の違いが大きいように思う。

 私たち堺市の職員は、業務と組織が細分化され、80万人を超える方を対象としている中で、ともすれば自分の仕事と住民とのつながりを実感できずに、目の前の仕事に汲々としてしまっているのではないかと改めて感じるのである。

 ここまで話をしてきて、では、海士町での出会いを今後にどう活かすのかという最後の件である。先に紹介したように、海士町には堺市よりも魅力的なところがあるのも事実だ。でも自分は、それなりの年齢になったせいか、不思議と、堺市を卑下して海士町はいいなぁという感傷的な気持ちにはなっていない。自分の生活の本拠が今のところ堺であるというのが現実であり、さしあたり、ここ堺市で活動するなかで海士町での経験を活かしたいというのが率直な気持ちである。

 今の状況からすると、引き続き、住民のニーズとは無縁に思えるような仕事を日々きっちりとこなすというのが、大半の時間になるような気がする。その中にあって、まだイメージ程度でしかないが、「住民のためにとは何か」ということへの余白を残して、そこに思いを巡らせる自分であり続けるというのが、海士町での経験を活かす道になるのではないかと考えている。

 最後に、海士町での出会いを通して、珠玉の言葉に巡り会えた3日間でもあった。その一つ一つを紹介したいところであるが、そうした出会いをいただけたことへの感謝を述べ、今後の生きていくうえで糧にしていきたいと思う。

 車では感じることのできない島の空気を体で感じたいと、突如、自転車を持ち込み、プログラムの運営上、色々と気をもましてしまったであろう(株)巡の環の皆さんへの感謝も伝え、結びとしたい。次は、自転車とカヤックで島一周だ!