堺市職労(堺市職員労働組合)ブログ

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大地震翌日から首都東京にて その2

市職労ニュースの手記から転載します。

「こちらにお並びくださあい!」拡声器がないのか、男性店員が地声で叫び続けている。風貌から緊急動員の役職者と見た。

 店に入るなり、なにこれっ!思わず家族全員が声にした。巨大な食品売り場内を幾筋にも分かれて取り巻く鎖のような光景が目に入った。レジに向かう客の列。各列の最後尾では店員が手を振り上げている。店員同士の会話がそっと漏れ聞こえた。「こんなことオープン以来初めてよね・・」

 日本で初めての出来事がすでに起こっているし、これからも起こるのだろう。まだ見えぬこれから。普段なら店も店員もホクホク顔のはず。だがこれは違う。みんな笑顔で接客しようとしているが口元はこわばっている。客も店員も東日本の人々だ。

 店の役職者らしき人物はスーパー内でパニックが起きないことを念じているようだった。客も整然と見えぬルールに従っている。客の質問に答える店員の説明が背中越しに聞こえた。「現在のところ商品はございます、はぁ、ただ、いまこの状況でございますので、危険ですので補充作業ができませんので・・」超過密状態の店内ではやむを得ない判断である。

 通常は15分程度の買い物が1時間30分もかかった。そして私たちはタクシーで帰宅した。スーパーからタクシーで。これも初めての出来事だ。段ボール箱の上蓋がひっかかってトランクがなかなか閉まらなかったが、後続タクシーの運転手さん全員が親切に手伝ってくれた。「近場ですみません」と娘。いやな顔ひとつ見せない運転手さんに支払ったのは710円だった。

 東京での4日間、家ではテレビに釘づけとならざるを得なかった。CMの中心は公共広告機構のもの。3歳ちょっとの孫娘はすぐに反応して音程も正確に「エイーシー」と言うようになってしまった。ケイカクテイデンも初めて。でも在京中、どの地域がどのグループなのか分からずじまいだった。

 原発関連の報道はやはり衝撃続きだ。だが急に原子力の専門説明をされても困る。娘家族がこれからも無事でありますようにと願いながら帰宅した。16年前、組合の仲間とともにその日の活動を終え、後ろ髪を引かれる思いで避難所から帰ってきた(編集注:筆者は阪神淡路大震災時にボランティアとして避難所にいました。)ときのように。電気器具の元栓を抜いた。