堺市職労(堺市職員労働組合)ブログ

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神山視察を振り返って①

さかい未来づくりサロン(2月27日付)

T・H氏

 視察のちょうど2ヶ月前、NHKで放送された『鶴瓶の家族に乾杯』のロケ地が、偶然、神山町でした。過疎地というだけあって、随分、山奥なんだなぁというのがテレビから受けた印象でしたが、マイクロバスで四国に渡り、1時間ほどで現地に到着したのでした。みなさんは、県庁所在地の徳島市内からわずか1時間ほどの地域が、過疎地だなんて信じられますか?こうした地域が神山町に限ったことではないのだろうと思うと、東京など都市部への人口集中が日本で引き起こしている問題を、到着早々、ガツンと感じさせられたのでした。

 テレビに限らず、神山町は、朝日新聞に『神山町の挑戦』と題して、53回にわたって連載される(2016年9月~12月)など、メディアで取り上げられている全国注目の地域です。そうした場所に、直接見に行ける、話を聞きに行ける、そして参加者と一宿一飯を共にできるところに魅力を感じて、島根県海士町三重県新宮市熊野川町、岡山県真庭市に続いて、4回目の参加をさせてもらいました。

 今回は1泊2日の視察で現地の方の説明や交流を通して、私自身が特に印象に残ったことを3つ取り上げます。

ハンディがブランドに

 神山町は、雇用がない、仕事がないという過疎地に共通する課題を逆手にとって、町の将来にとって必要と思われる、「仕事をもった人」「仕事を創りだしてくれる人」を移住者として迎えています。もちろん、町が実施するのではなく、町から委託をうけたNPO法人が窓口になっているからこそ、こうした“逆指名”ができるというのは、うなずけるところです。

 でも、居住の自由が認められている世の中で、どうして移住者の職種を事前に特定するようなことができると、みなさんは思われますか?何と、町には不動産屋と公営住宅が無いそうです。神山に移住したくても、空き家がすぐに見つかるという状況ではありません。だからこそ、移住支援センター(NPO法人が町から受託)が窓口となって、子育て世代や手に職をもつ専門家などの「町の課題解決につながりそうな希望者」から優先して空き家の紹介を行っているそうです。一見不利な条件を、町のブランド力向上につなげているところに、全国から注目を集める秘訣のようなものを感じた一場面でした。

「やってみたら」と

「人のつながり」

 私たちが宿泊したのは、WEEK神山。築70年の古民家を再生した食堂と2階建ての宿泊棟があります。長らく人が住んでいなかった(放置されていた)空き家とは思えない空間です。古民家の雰囲気はしっかりと残しながら、おしゃれで居心地のいいスペースとなっています。一枚板の大きなテーブルをみんなで囲んでお酒を酌み交わしながら、所有者の南さんは、自身を「一度、神山を捨てた人間」と言葉にされていました。神山で育ったものの、徳島市内で就職し、居を構えられたそうです。その南さんが、生まれ育った神山とWEEK神山のこととなると、嬉々として話があふれ出す様子で、聞いているこちらが幸せを感じました。

 さまざまな出会いを生み出しているWEEK神山ができたのも、たまたま南さんが退職される時期に、たまたま神山のサテライトオフィスに建築家の方が移り住み、ちょうど出張などで利用できる宿泊施設が神山に求められていた時期で、偶然の出会いが重なっていたようです。

 アリスの里帰り推進委員会から、アドプト制度、アーティスト・イン・レジデンス、NPO法人グリーンバレーの設立、ワーク・イン・レジデンスと(それぞれは朝日新聞の連載に詳しい)全国に注目される神山を形づくってきた一連の活動の底流には、「1回やってみたら」という精神が流れ、それが人をつなぎ、その人の輪が神山を可能性の感じられる町にし、一度、神山を捨てた人に、嬉々として神山を語らせているのだと感じたのでした。

お接待文化の血

 先ほど、アーティスト・イン・レジデンスと書きましたが、これは、海外のアーティストに宿泊・アトリエ等を提供し、作品を制作してもらう活動です。1999年に開始されています。地域のつながりが強く、他から入ってくる人間は、恐らくよそ者に映るであろう場所で、約20年も前、どうして海外のアーティストを招くようなことができたのでしょうか?そのヒントの1つが、南さんの幼いころの話から垣間見えたように思えました。

 四国八十八ヶ所霊場巡りは、今でこそ、車遍路などの方法も増えているようですが、当時は歩き遍路が一般的で、家を訪れたお遍路さんに、ご両親が1杯のお米を渡していた記憶を語られていました。そして、そのお米によって、お遍路さんは次の巡礼地で宿を提供してもらえたそうです。いわゆるお接待と言われる、思いやりの心です。苦労している人を断らない、お接待文化があったからこそ、地縁関係の強い地域でありながらも、よそ者を受け入れる広い素地があったのだろうとうなずけました。

 2日目の早朝、宿から遍路ころがしと言われる第12番札所の焼山寺をめざして自転車を駆けていたとき、出会う地元の方から「おはようございます!」と声をかけられ、その気持ちを強くしたのでした。山中にお遍路さん用のトイレが設けられ、何とウォシュレット付き便座という行き届いた心遣いにも驚かされました。

 竹山堺市長が言われている、堺の3つのDNA(「南蛮貿易の遺伝子」、「匠の遺伝子」、「自由の遺伝子」)と重ね合わせながら、地域のオリジナリティということに思いを馳せました。

 参加者の報告が、現地視察の魅力を読者のみなさんに少しでも伝えることができて、次回以降、今回よりもたくさんの参加者で学べる場となることを願って、締めくくりとします。