1月26日付
(3)の続き
「彼(ヴィレラ)には、都以外として、日本のヴェネツィア堺の市街以上に重要な場所はなかろうと思われた。その市街は大きく、富裕であり、盛んに商取引が行われるのみならず、あらゆる国々の共通の市場のようで、絶えず各地から人々が参集するところであった」(フロイス「日本史」)
ザビエルが堺に来てから約10年後の1561年、将軍足利義輝の許可を得て京の都で布教していた宣教師ガスパル・ヴィレラは堺でも布教を目指します。
このときヴィレラを歓待したのも日比屋了慶。子どもや親族に続き、了慶自身も63年に洗礼を受けました。宣教師ルイス・フロイスは「18年以上もの間、彼の家は昼夜とも教会の役目を果たし、2階を司祭たちは居室とし、そこでミサを献げ、告白を聴いた」と記し、了慶は堺でのキリシタンの柱石としています。
ただ、布教をめざしたフロイスにとって堺の人々は「自尊心と不遜なことは非常なもので、彼らは貪欲、暴利、奢侈(しゃし)、逸楽をほしいままにしている」と映り、「世の思惑や評判を気にし、デウスの教えの真理に従うことを躊躇する」と記しています。
ポルトガル人が直接寄港した九州とは異なり、畿内各地の商人や寺社勢力、武家と取引して現世利益を求めた堺商人たちは、改宗が現世利益につながるとは思えなかったのではないでしょうか。
その後1564年、天下を握っていた三好長慶が死去し、新たな支配者となった松永久秀は翌65年ヴィレラやフロイスを京から追放。織田信長から京での布教許可を得るまでの4年間、ヴィレラたちはその堺で、先の見えない悶々とする日々を過ごすこととなるのでした。
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