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歴史ある大阪市つぶさんといて①渡辺津と大坂本願寺

10月19日付

  大河ドラマ麒麟がくる」の時代、畿内を手中に収めた三好長慶は、1560年、大阪平野や京を望む河内国飯盛山城(四条畷市大東市)に本拠を移しました。長慶の眼下に広がる大阪平野は、大和川が淀川に流れ込み、深野池・新開池が広がっていました。
 その下流摂津国は、瀬戸内海と京、深野池などを水運でつなぐ要衝として津(港)が発達。現在の大阪市八軒屋浜付近は渡辺津と呼ばれ、海産物をはじめとした交易、交通の拠点であり、また日本仏教の創始者聖徳太子ゆかりの四天王寺、航海の守護神住吉大社への参詣路の起点でもありました。
 渡辺津を見おろす上町台地の北端には大坂本願寺(石山御坊)が築かれ、浄土真宗本願寺派一向宗)の本山として城塞都市を形成していました。平戸から堺に上陸し、京に向かう途中1564年12月末に大坂に宿泊した宣教師フロイスは町のようすを「そこは一向宗の上長で、全日本でもっとも富裕、有力、不遜な仏僧の都市であった」と記しています。なお浄土真宗寺院はこの頃大坂本願寺を後ろ盾として貝塚久宝寺、富田、枚方、富田林など各地に寺内町を形成しました。
 戦国の大阪地方は、本願寺など寺内町や、堺や平野といった自治都市が発達し、交易、交通、商業網が形成されました。
 三好長慶は、各都市のつながりを基盤に畿内を支配。一方、織田信長は、堺や本願寺など諸都市に矢銭(軍資金)の貢納を要求。1570年から11年にわたる本願寺との戦争では、各寺内町本願寺を寸断し、物流を自らの支配下に置いたのでした。