2月21日付
「小西行長は、1558年、薬を扱う商人である小西立佐の次男として生まれました。幼い頃にキリスト教の洗礼を受けたといわれています(洗礼名アゴスチイノ)」(碑)
大道筋に面した宿屋町東1丁の歩道上に建つ小西行長屋敷跡碑をご存じでしょうか。
近年、行長の研究が進んでいます。その生誕地は京。堺出身の父立佐は宣教師ヴィレラから洗礼を受け、65年の京からの宣教師追放時には河内国まで同行しました。
行長は備前宇喜多氏、その後羽柴秀吉に仕え、瀬戸内海の室津や小豆島を所領。86年に堺奉行となった父立佐とともに、堺~瀬戸内海~九州までの輸送ネットワークを確立しました。
実は父立佐が薬商人だったとの史料は発見されていませんが、薬の原料も鉄砲の火薬原料の硝石も明や東南アジアから輸入します。当時の堺は硝石の輸入拠点でもあり、こうした堺商人の力が行長の水軍力の背景にあったことでしょう。
秀吉の信頼を得た行長は88年には肥後南半国宇土城主となり、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)では明との和平交渉を担当しました。
一方でキリシタンとしても生きた行長は、宣教師を支援しつつも秀吉の伴天連追放令などの弾圧も切り抜け、秀吉死後は領内での布教活動を本格化。またハンセン病院や教会を大坂や堺に建てたとも伝えられています。
1600年関ヶ原の戦いでは西軍につき、石田三成らとともに京都で斬首。肥後南半国はライバルの加藤清正に攻め落とされました。信仰と堺商人の力で天下人秀吉を支えた行長。その功績はイエズス会によりヨーロッパにもたらされ、1607年にはジェノバで音楽劇「アゴスチイノツノカミドノ(小西摂津守行長)」が上演されたのでした。