堺市職労(堺市職員労働組合)ブログ

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終戦から75年 決して忘れない、繰り返さない

8月19日付

 

 「私は、堺の真ん中の宿院に生まれて育った。7月10日の未明、呼び声に起こされて私達は眠りをさまして外を見ると『空は真っ赤』で行く先々は『焼夷弾』が落とされ、もう駄目かと思いましたが西へ少し行くと元の青果市場の広場の中に屋根のない深さ1mくらいの防空壕があり、近所のおじさんが『この中に入りなさい』と言って上から布団を被せてくれて泥水を何回もかけてくれました。後で、住吉橋の所で大勢の人が『水を水を』と言いながら亡くなったと聞かされました。
 家が無いので自分の家の焼け跡の防空壕で暮らしていました。今後も二度と夫や息子を戦場にやるような戦争は絶対にしてはなりません」(元学校給食支部委員長西知子氏)。
 敗戦直後の堺市は、3月から8月までの5度にわたる空襲により、市街地の大半が焼き尽くされていました。
 7月10日の4度目の空襲では、戦災死亡者1860人、焼失・破壊家屋1万9千戸、被災者7万人と伝えられています。
 堺市制百年史は「市民が戦争のために犠牲にしたものはあまりにも大きかった。それだけに、太平洋戦争が日本の敗戦によって終わると、多くの市民は、しばらく虚脱状態におちいった」と記しています。
 堺市役所は、45年10月に復興部を設置し、戦災都市に指定されました。
 戦争は終わったとはいえ、市民生活は困難をきわめました。
「教科書はざら紙で作成されたり、ぬかのような配給のお菓子。明日の食べる物に神経を使うような戦火の下や、戦後の教育や生活を思うと、平和の大切さを願う心は言葉では言いつくせない」(巽幸子氏 当時小学校勤務)
 日本国憲法に平和主義が刻み込まれた背景には、こうした市民の痛苦の体験、過ちを繰り返さない固い決意があります。