堺市職労(堺市職員労働組合)ブログ

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歴史ある大阪市つぶさんといて② 商都 大坂三郷の成立

10月21日付

 

 1582年本能寺の変のあと、織田信長の後継者となった羽柴秀吉は、直後から大坂本願寺あとに大坂城を築き、渡辺(天満)から四天王寺まで上町台地に城下町を建設し、堺、平野、伏見から多数の商工業者を大坂に移転させました。
 秀吉は、四天王寺から南も堺まで街道沿いに家を建て並べて堺を大坂の外港とし、いずれは遷都も構想していたとされます。しかし、1596年の慶長の大地震で堺の町が壊滅したこともあり、計画を修正。新たに上町台地西側の湿地帯に船場を開発しました。
 大坂冬の陣、夏の陣により豊臣家を滅亡に追い込んだ徳川幕府は、1620年から大坂城の再築や町人地の整備に着手。西船場や島之内が開発され、堀も次々と開削されました。こうして東は東横堀から西は木津川、北は天満から南は道頓堀まで至る町人地が開発され、大坂三郷(天満組、北組、南組)が整備されました。
 江戸期の大坂は、人口30万~40万人でしたが、武士は1万人足らず。堂島の米市場では全国の米が取引され、天満では青物市場が、大川の河口近くには魚市場がおかれ、商都大坂の繁栄を支えました。
 大坂は、幕府の天領(直轄地)とされ、大坂城代のもと、大坂町奉行(東・西)が設置され、町人から惣年寄(そうどしより)(世襲制。天満組5人、北組10人、南組6人)が置かれました。惣年寄のもとには、各町を代表して町年寄(約600人)が置かれ、行政機構の末端を担いました。大坂ではこの町年寄を毎年度選挙で選出。選挙人は家持ち町人の世帯主に限られ、全体の1割未満でしたが、江戸時代から投票が行われていたことは、大坂の自治水準の高さを示すものです。
 やがて、二条城で大政奉還が行われ、時は明治、大正、昭和と激動の近代化の波が大阪にも押し寄せるのでした。