Kさん(9月5日・7日付)
まず、豪雨などの自然災害により被災された皆様に対し、心からお見舞い申し上げます。
********
8月18日(土)19日(日)の2日間、大阪自治労連主催の倉敷市真備町への災害ボランティア活動に参加しました。初日、南森町駅近くに7時集合で運転手も含めて大阪自治労連本部と9労組31人参加、バスで倉敷市災害ボランティアセンターに向かいました。
一日目、下有井サテライトで、女性4人でグループを組み80歳代の夫婦のもとへ。
作業内容を、自宅内の泥の拭き掃除と建具の洗浄、被災者からの傾聴、熱中症対策として20分の作業ごとに休憩をとり水分補給するよう指示されました。
1・5~2mほどかさ上げされた地盤に建つ築約30年の2階建て住宅を訪問。こんなに高い地盤で浸水被害があったのだろうか、と疑問を抱きながらスロープを上がって、玄関へ。杖をついたおじいさんが待っておられ、1階はがらんどうで、壁はモルタルがはがされ土壁が露出し、もろもろと土が落ちてくる状況で、泥埃と泥臭さが抜けない住宅内の床や柱の雑巾がけをしました。
1階天井のすぐ下まで水没し3日間泥に浸かっていたため、泥が木材に浸み込み何度拭いても泥が中から出てくる状況。対処法は何度も拭くしかないと同行の方から聞きました。
7月6日から7日にかけて避難勧告が出た時は、夜中、気が付いたら泥水でみるみる浸水し、夫婦とも足腰悪く動けない体で必死で階段をよじ登った、1階は水没し周りは海のようになって2階の窓からボートで救助された、体育館で奥さんが体調を崩し入院。おじいさんは、携帯の充電が切れて困った、犬がいるため体育館にも長居できず、被災を免れた親戚の家に行ったが、昼に自宅の片付けをして泥まみれになり親戚の家に長居はできず3、4日ごとに親戚の家を1ヶ月ほど転々として、今は自宅の2階に寝泊まりしている。
3~5m浸水しほとんどの家は2階まで浸かったため、周辺は誰も住んでおらずゴーストタウン化している。
地区内で亡くなった方もおられ、誰がどこに避難しているのかわからない状況、私の家は、建築当時1千万円かけてかさ上げしていたので2階の水没を免れ、私たちにはここしかない。1階が水没したため、自分の衣服、茶碗、電化製品など生活に必要な物は全てなくし、着る物は全て支援物資のリサイクル品、台所も使えず、避難所のおにぎりなどしか食べていない、とのことでした。
先祖は、もう少し川下に住んでいたが、明治23年の豪雨で水没し、川上の方に引っ越した。明治に堤防工事が行われそれ以降川が決壊するようなことも水没することもなかったし、私の家はかさ上げもしていたので水没するとは思いもよらなかった、とのこと。
二日目は、堺市のメンバー5人で昨日よりも川から離れた70歳前後の夫婦の住宅へ。泥で汚れた外壁を水で洗浄、その作業にあたった人はボトボトになった。私は天井などを雑巾で拭く作業にあたり、泥埃が舞い目に入って痛かった。
住宅は大正6年建築で1階は水没したが、屋根裏部屋へ吊り梯子で上に上がり、その窓から救命ボートで助かった、家は全壊の判定を受け、若い人たちなら新築の決断ができるが、年金生活で家を建て替える資力はなく修理して住むしかない、7、8月猛暑の中エアコンも水没し使えないので現在は公民館に他の数世帯と身を寄せている、とのこと。
倉敷の旧市内からボランティアに来られている方からは、豪雨の夜は倉敷市内の川のどこが決壊してもおかしくない状況で、何度も携帯に防災情報が入り、放送があり、眠れない夜だった、と聞きました。下有井サテライトにはボランティアで看護師の方などがおられ、倉敷市災害ボランティアセンターも全てボランティアの方である、とのこと。
同行の大阪のメンバーからは、大阪北部地震での自治体の状況や東日本大震災地域へボランティア活動に積極的に参加した話が聞けたり、様々な情報が得られて有意義でした、ありがとうございます。
今回、阪神淡路大震災以来「被災地」に行く機会を持つことができ、私自身の親が介護を必要とする年齢になり、豪雨により浸水し避難所生活を送っている高齢の方々がどのような思いで過ごしているのか、どのような援助が必要なのか、現地で実際に会って学びたいという思いと、猛暑の中で、泥かきなどの土木作業になると聞いていましたので、自分自身の体力に不安も抱いての参加となりました。
最後に、被災の体験を聞かせていただいた方々、大阪自治労連で企画していただいた方々に感謝します。