堺市職労(堺市職員労働組合)ブログ

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原水爆禁止世界大会

被爆者の体験を聞く(8月17日付)

 8月4日~6日、『原水爆禁止世界大会』に参加しました。

 2日目の分科会「被爆体験の継承・実相普及と援護・連帯活動」では、被爆体験者6名、被爆2世・3世が9名参加していました。会場の被爆者一人ずつから被爆体験を聞きました。

 8月6日、学校で被爆した当時6歳の西原さんは、「校舎が壊れ下敷きになったが、何とか這い出し逃げました。三滝川の近くに来たとき、黒い雨が降ってきました。空は燃える町の火で赤く染まり、景色は黒と赤の2色のみ。まさに『はだしのゲン』の光景そのままでした。6歳のときに見たものは、未だにフラッシュバックします」と、最後は涙で声を詰まらせました。

 原爆ドームの川向にあった国民学校に通学していた児玉さんは、爆心地から3・5㎞のところで被爆しました。「木造校舎が倒れ、ガラスが飛び散りました。ガラスが体に刺さるなんてことはどうってことなかったです。従妹のお姉ちゃんは全身火傷を負い、足の裏には五寸釘が刺さっていました。火傷の傷にウジ虫がわきます。私は毎日、お姉ちゃんの体のウジ虫を取ってやりました。ある朝、お姉ちゃんは消えそうな声で『お水・・・お水ちょうだい・・・』と言いました。私は手ぬぐいに湿らせたお水を口元で絞ってあげましたが、お姉ちゃんは飲む力もなく、そのまま亡くなりました。

 10歳の従妹のお兄さんは、軽傷だったのですがずっと下痢をしていました。鼻や耳から出血もありました。

そして、ある日突然、縁側で『ぐえっ!ぐえっ!』と内臓が全部出たのかと思うほど大きな血の塊を何度も吐いて、バタッと倒れてそのまま死にました。

 私は自分も鼻血が出ていたので、『お兄さんみたいになって死ぬのかな』と怖かったです。結婚して子どもができたとき、『被爆2世』として生む事に、とても覚悟がいりました。自分の周りで次々と人が死んでいく。それが戦争です。みなさんは平和のために、今どんな活動をしていますか?ひとりでも多くの人に、戦争のことを話してください」と切実に訴えられました。