堺市職労(堺市職員労働組合)ブログ

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堺ふしぎ発見(2)

9月2日付

組合員の方から、「堺の住所はなぜ丁目の目がつかないの?」という疑問をいただきました。

 市ホームページを見てみると「諸説ありますが、江戸時代の『元和の町割り』にそのルーツがあると考えられています」とのこと。

【以下市ホームページより抜粋】元和元年(1615年)、大阪夏の陣で全焼した堺は、徳川家康により、南北の大道筋、東西の大小路通を基軸として、碁盤の目の形に町割りされ、整然とした町に生まれ変わりました(通称名も含めた町の数は、多いときで400近くにも及んだ)。

 その後、明治5年(1872年)の町名改正では、町名をより分かりやすくするために、独立した町名のかわりに、大道筋に面した町名をもとに、東側は○○町東一丁、東二丁…、西側は、○○町西一丁、西二丁…と変えました。

 それぞれ独立した町が東一丁や西二丁などに変わったため、町を細分する意味合いを持つ「丁目」はなじまず、町と同格の意味で、「丁」を使ったものと思われます。 【了】

 担当部署の方に聞くと、昭和4年の市議会で、大正末期に合併した舳松村と三宝村の町名改正を行う際、10月31日の市議会で、「従来堺市においては、常に何丁と称し、何丁目とはいわぬことを理由に、新町名より『目』を除く」ことが建議され、11月12日の市議会で修正されたと教えていただきました(堺市史続編第二巻)。

 その後も堺市は周辺自治体との合併を繰り返しましたが、「目を除く」が美原区以外では踏襲されたようです。

 現在の「丁」は、町を細分しており、実態上は丁目と変わりませんが、目を除くのには訳があったのですね。

 なお、町名改正当時の明治5年は、まだ堺市そのものが成立しておらず、堺県の中の一地域だったようです。

  組合員の方々の疑問をお待ちしてます♪