堺市職労(堺市職員労働組合)ブログ

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終戦から71年目 その時、堺市民の生活は 堺市の戦後を振り返る

(8月15日付)

 

 

本日8月15日は、終戦記念日です。71年前の今日、大日本帝国(当時)は、ポツダム宣言の受諾を発表。長く続いた戦争は終わりました。当時の堺市民の生活を振り返ります。

 

 1945年8月15日正午、国民に敗戦を知らせるラジオ放送が行われました。

 「私は、学童疎開で、現在の堺市百舌鳥梅之町の法華寺というお寺に疎開しました。当時は水田や畑が多く堺市内から見れば田舎という感じでした。そのお寺の本堂で全員正座して、昭和20年8月15日正午の終戦を知らせるラジオ放送を聞きました。先生や大人たちは戦争に敗れたと泣きました。私たち子どももみんな同じように泣きましたが、子どもたちはこれで家へ帰れる、両親や兄妹にあえる、また学校へ行ける、友だちにもあえる、おなか一ぱいご飯が食べられる、そして、今日からは、あの恐ろしい空襲がなくなり、安心して夜は眠ることができるし、昼は友だちと思いきり遊べるぞ、とうれしくて泣きました」(福井清治氏)

 敗戦直後の堺市は、3月から8月までの5度にわたる空襲により、市街地の大半が焼き尽くされていました。戦災死亡者1860人、焼失・破壊家屋1万9千戸、被災者7万人と伝えられています。

 特に、7月9日~10日の4回目の空襲は市街地の62%を焼き、壊滅的な被害をもたらしました。

 堺市制百年史は「市民が戦争のために犠牲にしたものはあまりにも大きかった。それだけに、太平洋戦争が日本の敗戦によって終わると、多くの市民は、しばらく虚脱状態におちいった」と記しています。

 堺市役所は、45年10月に復興部(事務局:庶務課、教学課、社会課、保健課、商工課、農水産課、戸籍課、土木課、都市計画課、水道課、経理課)を設置し、堺の復興にあたることとしました。

 戦争は終わったとはいえ、市民生活は困難をきわめました。

 「八月末に疎開地(八田荘小学校)を子どもたちと共に引きあげて本校(湊小学校)へ。終戦になったとはいえ、その後の生活の大変さ。焼けあとから子どもたちが草を集めてくる。それを加工してのダンゴ。半分も食べられなかった。一ヶ月に三日分の米の配給。豆や大根や野菜を入れての主食、休閑地でのさつま芋、じゃが芋などの栽培で補給する。現在のように、生活必需品がすべてそろったうえでの最低生活とはちがい、戦時中、戦後のしばらくは、なんとか食べることが最低生活であった」「教科書はざら紙で作成されたり、ぬかのような配給のお菓子。明日の食べる物に神経を使うような戦火の下や、戦後の教育や生活を思うと、平和の大切さを願う心は言葉では言いつくせない」(巽幸子氏 当時小学校勤務)

 戦後71年目の今年、参院選の選挙結果を受けて、改憲が今後の政治日程にのぼるとされていますが、日本国憲法に平和主義が刻み込まれた背景には、こうした市民の思いがありました。