~香櫨園のことで思い出すこと~
(1月28日付)
当時所属していた土木部の仲間と、2月4日に初めて香櫨園小学校に「釜めし」の炊き出しに行きました。
現地の光景で覚えているのは、あちらこちらで上がっている野焼きの煙…。白鶴小西酒造の壊れた塀のすぐ向こうにお酒の入った一升瓶がごろごろ転がっていたこと…。一見被害を受けていないように見える住宅がよく見ると1階部分が完全に潰れてしまい、その上に2階部分が乗っかっていたことなどです。
その後、同じく土木部にいた本松さんから「2月17日から21日まで学生ボランティアのまとめ役で香櫨園に行けへんか?その間だけ組合役員で行ける者がないねん」と勧められ、所属の河川水路課の仲間にも背中を押してもらい、発災から一か月目の2月17日から5日間香櫨園小学校で過ごしました。
その時の主な任務は大学生と共に、体育館前に設けられた大きなタンクに当時全国から来ていた給水車から水を受け取り、その水を自宅から来られる方々のポリタンクに給水するというもので、堺市職員の皆さんや全国から来られた方々と共に夜明けから夕方まで切れ目のない作業でした。その他にも小学生とトランプをしたりボール遊びをしたり、また校内に設けた洗濯場の排水管が詰まって、それを直すためにカンツールという道具を河川水路課の仲間に持って来てもらい、排水管から原因のドッジボールを取り出した時に歓声が上がったことは今もよく覚えています。この間に、大江千里さんが来られて音楽室で歌ってくれたこともありました。
後任の方と交代して帰宅する途中、車中からの景色は大阪に近づくにつれて壊れた屋根やブルーシートが見えなくなり、梅田に着くと僕のようにリュックを背負って焚火のススがついたスタイルの人は少なくなり、難波ではちらほらになり…。栂・美木多駅に着いた時には僕は結構目立った存在になっていました。