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歴史ある大阪市つぶさんといて③ 「住み心地よき都市」大大阪

10月23日付

  1925年、東成・西成両郡44町村の市域編入によって、大阪市は人口が133万人から211万人と全国一の大都市となり「大大阪」と言われました。紡績工業では大阪の9工場で全国の資本金46・9%を占め「東洋のマンチェスター」とも呼ばれました。
 一方「大大阪」は、明治以来の資本主義の急速な発展に加え、都市化への急膨張・過密化のなかで、労働者の貧困層の拡大、住宅とスラム化問題、煤煙、河川汚濁など都市問題を生みました。
 東京高等商業学校(現一橋大学)教授から、大阪市助役を経て市長に就任した関一(在任23年~35年)は、「都市政策」に大きな力を注ぎます。
 「大学は都市とともにあり、都市は大学とともにある」という言葉を残した関は、28年には全国初の市立大学、大阪商科大学(現大阪市立大学)を設立。御堂筋や地下鉄、上下水道整備を行いました。
 都市の弊害のうち、関が最も重視したのは「中下層階級」の住宅と居住環境の悪化でした。関は「都市の誇りとするところは其面積の広狭や戸口の多少ではない。市民の福祉を増進すべき施設を整へ一国文化の進展と経済の振興とに対し最高の機能を発揮するにある」と述べ「住み心地よき都市」を目指しました。
 関はまた、都市政策を実現する制度として「特別市制」を主張。これは当時の東京、大阪など6大都市を行政的にも財政的にも独立させ、内務大臣の直接監督のもとにおくもので、関は特に国政事務権限を市長に委譲させることを求めました。 しかし、「特別市制」問題は、戦時体制強化のもと、東京市を解体し東京都を編成して帝都とし、官選の都長官を置くというかたちで決着してしまいます。
 都市問題解決のために基礎自治体の権限拡充を求めた関一と、東京市を解体した国。戦後、日本国憲法には地方自治の章が設けられ、1956年には政令指定都市制度がスタート。地方分権が次第に進められたのでした。
 特色ある地域が混在しながら、大都市機能を発揮してきた大阪市。11月1日実施の住民投票は「大阪市というまとまりを消滅させ、その歴史に幕を下ろさせる」かが問われるきわめて重大な選挙です。(連載おわり)